世の中には、不思議なことがある。
いや、正確に言おう。
世の中には「不思議な事くん」がいる。
不思議な事くんは、とても温厚だ。
常にぽわぽわしており、怒気というものをどこか遠い惑星に置いてきたような男である。
春のわたあめに人格が宿ったら、だいたいこういう感じになるのではないかと思う。
そんな不思議な事くんは、よくこう言っていた。
「俺を怒らせたら、たいしたもんっすよ」
ずいぶん余裕のある男である。
普通、怒らない自慢をする人間は、だいたいちょっとしたことで不機嫌になる。
「全然怒ってないけど?」と言いながら、声のトーンだけは明らかにマグマであることが多い。
しかし不思議な事くんは違った。
本当に怒らなかった。
前に崖から突き落とした時も怒らなかった。
鈍器で殴った時も怒らなかった。
毒を盛った時ですら怒らなかった。
このへんまで来ると、温厚というより司法が動くべきである。
だが不思議な事くんは、それでも怒らなかった。
「いや~、危なかったっすねえ」
で済ませていた。
危ないで済む範囲を大幅に超えている。
一回目の崖で普通は人間関係が終わる。
二回目の鈍器でだいたい警察が始まる。
三回目の毒で完全にジャンルがサスペンスになる。
それでも彼は怒らなかった。
なんという器の大きさ。
なんという心の広さ。
なんという危機管理能力の低さ。
誰もが思った。 この男は本当に怒らないのだ、と。
だが、その日。 ついに事件は起きた。
その時、不思議な事が怒った!!
ブチギレである。
机を叩き、床を踏み鳴らし、目を見開き、肩を震わせている。
あの不思議な事くんが。
あれほど温厚を自称し、 「俺を怒らせたらたいしたもんっすよ」と、どこか達観した笑みすら浮かべていたあの男が。
今、怒っているのである。
場の空気が凍った。
何があったのか。
何もなかったのか。
むしろ今までの崖、鈍器、毒より重大な何かが起きたのか。
誰もが固唾を飲んで見守る中、恐る恐る尋ねた。
「どうしたの? 不思議な事くん」
すると彼は、怒りに震える声でこう言った。
「おまえらが俺を怒らせる事ができないのが、あまりに腹立った」
理不尽である。 あまりにも理不尽である。
こちらとしてはむしろ頑張っていた。
崖から落とし、鈍器で殴り、毒まで盛っている。
やれることはかなりやっている。
倫理と法律をかなぐり捨てて、怒りの引き金を探していたと言ってもいい。
それでも怒らなかったのは、そっちの仕様である。 にもかかわらず、
「俺をうまく怒らせられなかったのがムカつく」
と言い出したのである。知らんがなである。
しかし不思議な事くんの怒りは止まらなかった。
「俺は怒りたかったんすよ」
そんな願望、初めて聞いた。
「なんかいい感じの場面で、“その時、不思議な事が怒った”ってやりたかったんすよ」
演出都合である。 完全に演出都合である。
怒りの発生条件が感情ではなく、ナレーション映えだったのである。
つまり彼は別に傷ついたわけでも、侮辱されたわけでも、信頼を裏切られたわけでもない。
ただ、人生のどこかで一度くらい
その時、不思議な事が怒った!! をやりたかったのだ。
ひどい話である。
こちらはてっきり人の心の琴線には、もっと繊細で個人的なものがあると思っていた。
だが実際にあったのは「文章としての座りの良さ」への執着だった。
彼は続けた。
「でもおまえらは、俺を怒らすことができなかった。だから不思議な事は怒らなかった。そこが許せなかった」
もはや文法の復讐である。
怒らなかったことに怒る。
怒るために怒らなかった過去を責める。
そしてその責任を、なぜか他人に問う。
理屈が一周して、見たことのない生物になっている。
ここで我々は、ようやく気づいた。
もう十分、不思議な事は起こっていたのである。
崖から落としても怒らない男。
鈍器でも毒でも反応しない男。
それなのに「理想的な怒りの場面が演出できなかった」という脚本上の都合でブチギレる男。
これを不思議と呼ばずして、何を不思議と呼ぶのか。
むしろ彼は最初から正しかったのかもしれない。
彼は不思議な事くんだった。
不思議な事を背負って生きる男だった。
温厚とかぽわぽわとか、そういう話ではなかったのである。
存在そのものが、すでに現象だったのだ。
結局、その日以降、不思議な事くんは少しだけ落ち着きを取り戻した。
ただ、ときどき遠くを見るような目でつぶやく。
「次こそ、もっといい感じで怒りたいっすね」
やめてほしい。
二度と怒りを演出目線で語らないでほしい。
怒りは脚本会議で決めるものではない。
自然発生であれ。 せめて感情から始まってくれ。
しかし、たぶんまた起こるのだろう。
ある日突然、前触れもなく。
その時、不思議な事が怒った!!
そして理由を聞けば、おそらくまた理不尽なのだ。
だがもう驚かない。 なぜなら我々は知っているからだ。
不思議な事は、 「起こるか起こらないか」ではない。
もう、起こっているのである。
――以上、観測記録。
記録者:ぐうたらするめ(酒飲みながら書いた)



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