最近、麦茶が「地味」だの「退屈」だの言われていたらしい。
いやいやいや。
待て待て待て。
それはたぶん、麦茶を“飲み物”としてしか見ていない人間の発想である。
甘い。
認識が浅い。
麦茶をなめるな。
うちの麦茶は、そんな穏やかな存在ではない。
ばあちゃんが量子体制に入った。
いや、量子コンピュータではない。
量子体制である。
何が違うのかは知らない。
だが結果だけ言うと、麦茶が増える。
異常に増える。
冷蔵庫を開けるたびに増えている。
さっき一本だったはずの二リットル麦茶が、気づくと三本、四本、五本と並んでいる。
家庭内だけ物理法則が違う。
なんだ、大したことないじゃん。
ばあちゃんが無量大数の麦茶作るだけじゃん。
そしておまえらが溺死するほど飲まないといけないってだけじゃん。
なにびびってんの?
通常、一万年かけないと飲みきれない量の麦茶をおまえらが三分くらいで飲めよ。
飲まないと死ぬよってことで、飲んでも死ぬし、飲まなくても死ぬっていうそれだけじゃん。
おまえらが犠牲になるだけじゃん。
何が問題なの?
問題しかないのである。
まず、ばあちゃんの麦茶には悪意がない。
ここがいちばん怖い。
善意なのだ。
純度100%の善意で、冷えた二リットルが無限供給される。
兵站が強すぎる。
補給線が完成している。
戦争なら勝っている。
家庭ではちょっとやりすぎている。
「暑いから飲みな」
そう言われたら、こちらに拒否権はない。
たしかに暑い。
たしかに飲んだほうがいい。
たしかに麦茶はうまい。
うまいのだ。
ここが厄介なのである。
麦茶は顔がいい。
性格もいい。
後味もいい。
主張しすぎず、飯にも合い、風呂上がりにも合い、昼にも夜にも合う。
こんな万能選手を「地味」と呼ぶのは失礼である。
地味なんじゃない。
強い者は騒がないだけだ。
だいたい、「退屈な飲み物」ってなんだ。
麦茶は自分から前に出ないだけで、ちゃんと仕事している。
夏を支え、食卓を支え、家族の喉を支え、ばあちゃんのやる気を支えている。
しかもである。
もしそれでもおまえが
「いや、麦茶にはワクワクが足りない」
などとぬかすのであれば、解決策は簡単だ。
アルコールを足せばいい。
ほら見ろ。
急に話が変わってきただろ。
麦茶割。
うまい。
香ばしい。
夏っぽい。
なんか大人の余裕がある。
急に「地味」どころの話ではなくなる。
そして思い出してほしい。
麦酒。
そう、ビールである。
人類は昔から、麦に対してかなりわくわくしているのだ。
麦からできた飲み物に、どれだけ希望を見出してきたと思っている。
喉を潤し、気分を上げ、
「まあええか」
を加速させてきた歴史がある。
なのに片方は
「退屈」
と言われ、片方は
「とりあえず生で」
と歓迎される。
この差は何だ。
たぶんアルコールである。
結論が早い。
でもたぶんそうである。
つまり麦茶が退屈なのではない。
おまえらが刺激に慣れすぎているだけなのだ。
本来、麦茶は十分えらい。
それを静かに飲んで
「ああ、うまい」
で済ませればいいのに、現代人はすぐに
「もっと映えは?」
「もっと刺激は?」
「もっとテンション上がる要素は?」
と言い出す。
いや、知らんがな。
麦茶はインフルエンサーじゃない。
麦茶は麦茶として、ずっと真面目にやってきただけである。
むしろ偉いのはここからだ。
ビールはテンションの高い飲み物である。
最初から
「さあ飲むぞ」
という顔をして出てくる。
対して麦茶は違う。
麦茶は静かにそこにある。
何も言わない。
何も求めない。
ただ冷えて待っている。
なのに飲んだ瞬間、
「あ、生き返る」
となる。
これ、かなりすごいことである。
ビールがライブなら、麦茶は実家だ。
ビールが祭りなら、麦茶は帰港である。
ビールが打ち上げなら、麦茶は救助船である。
そして真価を発揮するのは、たいてい深夜だ。
酒を飲んだ夜中である。
散々いい気分になって、満足して寝たはずなのに、なぜか夜中に目が覚める。
喉が乾いている。
異常に乾いている。
砂漠が口の中に引っ越してきたのかと思うほど乾いている。
あのときの人間は弱い。
誇りも理性もない。
あるのは
「水分……」
という、限界生物としての本能だけである。
ふらふらと台所へ向かい、
冷蔵庫を開ける。
そこで待っている。
ばあちゃんの量子体制が生んだ、冷えた麦茶が。
そして飲む。
うまい。
いや、うますぎる。
染みる。
喉を通るたびに
「助かった……」
という感情が全身を駆け巡る。
あの瞬間だけは、ビールより偉い。
麦酒で盛り上げた夜を、最後に麦茶が回収する。
なんなんだこいつは。
昼は静かに寄り添い、
夜は酒の隣に立ち、
深夜には命の恩人になる。
これを退屈と呼ぶのは無理がある。
むしろかなりドラマチックである。
一日三話くらい活躍している。
どちらが偉いかではない。
どちらも麦で、どちらも人類を支えている。
つまり、麦はえらい。
ここで私はようやく気づいた。
麦茶を地味だの退屈だの言うのは、
海を見て「水ですね」と言うくらい浅い。
いや、合ってるけどそうじゃない。
理解が薄い。
麦茶とは文化である。
習慣である。
生活である。
ばあちゃんの愛である。
そして条件次第では酒の入口でもあり、酒の終着点でもある。
そう考えると、もう「退屈」なんて言えない。
だっておまえ、退屈な飲み物が深夜の命綱になるわけがないだろ。
そんな退屈、聞いたことない。
やはり麦は最初からポテンシャルが高いのである。
というわけで結論だ。
麦茶は地味じゃない。
退屈でもない。
ただアルコールが入っていないだけである。
そして、アルコールが入っていなくても十分うまい。
入ったら入ったで別方向に楽しい。
飲んだあとにまた戻ってきても最高にうまい。
つまり麦にハズレなしである。
今日も暑い。
ばあちゃんはまた麦茶を作るだろう。
冷蔵庫には二リットルが並ぶだろう。
わたしたちはそれを飲むだろう。
昼は麦茶、夜は麦酒、深夜にまた麦茶。
そうやって人類は夏を越えてきたのだ。
ありがとう、麦。
ありがとう、ばあちゃん。
ありがとう、量子体制。
乾杯。



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