感想まで自動化したら、もう終わりである〜AI創作界隈、交流営業の果てに見えた“ひとでなし自動化計画”〜

ぐうたら研究報告

こんにちは。 常に心に省エネ運転、どうも、ぐうたらするめです。

みなさんは、創作をしているだろうか。
私はしている。
なぜなら一攫千金を狙っているからである。

いや、違う。 違わない。
少なくとも半分くらいは違わない。

創作というものには、夢がある。
自己表現。
魂の叫び。
己の美学。
世界観の提示。
そしてできれば、労働以外の方法でちょっとお金が入ってきてほしいという、極めてささやかで、極めて俗っぽい願いがある。

私はその両方を胸に、AI音楽だの小説だのをこねくり回して生きている。
だが、創作の世界というのは、やってみると分かる。
作品を作るだけでは、あまり読まれない。
あまり聴かれない。 びっくりするくらい、静かである。

インターネットに放流した瞬間に
「天才、現る」
「この才能を埋もれさせてはいけない」
みたいな流れになるかと思っていたが、現実はそんなに甘くない。 むしろ、こちらが出した渾身の一作の横を、アルゴリズムが無表情で通り過ぎていく。 なんだその態度は。少しは驚け。

創作界隈には、交流営業という文化がある

で、しばらくやっていると見えてくるのである。
どうもこの世界、作品を作るだけでは足りず、交流営業が必要らしいということが。

小説なら他人の小説を読んで感想を書く。
音楽なら他人の曲を聴いて感想を書く。
「よかったです!」
「ここが好きです!」
「表現が素敵でした!」
そういうやりとりを積み重ねることで、存在を認識してもらい、相手にも見にきてもらう。

なるほど。
理屈はわかる。
理屈はわかるのだ。

だが問題は、私は感想を書くのがそんなに得意ではないことである。

いや、面白かった作品はある。
良かった曲もある。
普通に「ええやん」と思うことはある。
だが、それを言語化しろと言われると、脳が止まる。

面白かった。よかった。
すごい。えらい。なんか、いい。

ここで終わる。

未就学児か。

幼稚園の帰り道である。
「どうだった?」
「たのしかった!」
終わり。
会話が育たない。
相手の創作人生に何の寄与もしない。

もちろん頑張れば書けないことはない。
「この比喩が印象的でした」とか、
「Aメロの抑えた感じからサビで抜けるのが心地よかったです」とか、
「視点の運び方が自然で読みやすかったです」とか、
そういうそれっぽいことを言えなくもない。

だが、問題はそこに到達するまでに脳の労働が発生することである。

私は労働を嫌う。
肉体労働だけではない。
精神労働も嫌う。
なんなら感情労働も嫌う。
すべての労働に対して、かなり一貫した敵意を持っている。

でも営業しないと、見つからない

ただ、現実問題として、営業しないと埋もれる。これはかなりある。

別にみんながみんな互助会をやってると言いたいわけではない。
純粋に交流が好きで、他人の作品にちゃんと興味があって、自然に感想が出てくる人もいる。
それは素晴らしいことである。
人格が健全で、社会性があり、たぶん人から好かれやすい。

私は違う。

いや、他人に興味がないと言うと語弊がある。
興味はある。
ただ、興味を“継続的な対外活動”として運用する体力がないのである。

この違いは大きい。

たとえば私は、他人の曲を聴いて
「へぇ、こういう方向もあるのか」
「声の処理おもしろいな」
「この人、ちゃんと世界観考えてるな」
と思うことはある。

でもそのあと、コメント欄に
「素敵でした!」
「表現がとても魅力的でした!」
「今後のご活動も応援しています!」
みたいなのを書く段階になると、急に手が止まる。

なんか違うのである。 急に社交モードになるからだ。

私はいま作品を味わっていたはずなのに、なぜここで企業の広報担当みたいな文章を書かなければならないのか。
急に名刺交換会の空気になる。怖い。
作品を見に来たつもりが、いつのまにか異業種交流会に参加している。帰りたい。

そこで私は、禁断の発想に辿り着いた

そしてある日、私は思ったのである。

AI創作界隈なんだから、感想もAIで生成して、交流運用もAIでやればいいのでは?

いや、聞いてほしい。理屈としては美しい。

AIで曲を作る。
AIで画像を作る。
AIで文章を整える。
AIで投稿文を作る。
ならもう、AIで他人の作品への感想も作れば、創作活動の全行程が省エネ化できるではないか。

夢の自動化である。

他人の曲を貼る。
AIが一瞬で感想を作る。
「懐かしさと新しさが心地よく混ざり合っていて、独自の空気感がありました。特にサビの抜け感が印象的でした」
みたいな文章がスッと出る。

おお。 便利。 あまりにも便利。

しかも相手もAI創作勢なら、向こうもAIで返してくるかもしれない。
すると何が起きるか。

AIがAIを褒め、AIがAIに礼を言い、人間はただ通知を眺めているだけの優しい世界が完成する。

すごい。ついに来た。完全自動相互承認社会である。

創作。
交流。
感想。
承認。
すべてが自動で循環する。
人類はもう、酒を飲みながらたまに「へぇ、伸びてるな」と確認するだけでいい。
これはもしかして、文明の完成形ではないか。

いや、だめだろ

だが、さすがに途中で気づいた。

いや、だめだろ。

さすがにそれは、だめである。

何がだめかというと、まず感想の意味が消える
感想というのは、本来「あなたの作品を見て、私はこう感じました」という、人間から人間への微かな手紙みたいなものだ。
そこに価値がある。

それを 「こちらのAIが、そちらの作品を解析し、無難で失礼のない褒めコメントを生成しました」 にしてしまった瞬間、もう終わりである。

終わりというか、営業のフォーム送信なのである。

問い合わせ自動送信と同じである。
「御社のご発展を心よりお祈り申し上げます」みたいな温度しかない。

しかもそれを、創作の文脈でやる。
作品という、人の時間とか感情とか趣味とか執念とか、そういうのが詰まったものに対してやる。 それはさすがに、ひとでなし感が強い。

私も怠惰ではあるが、完全な外道ではない。
まだギリギリ、人の心に未練がある。

だが、気持ちはわかってしまうのだ

ただ、ここで厄介なのは、 その発想に至ってしまう気持ちはすごくわかるということである。

だって面倒なのだ。
営業は。 交流は。
継続運用は。
全部、面倒なのだ。

作品を作るだけでもエネルギーを使う。
曲を作る。
小説を書く。
絵を出す。
動画を作る。
投稿文を考える。
サムネを作る。
タグを考える。
公開時間を気にする。
リンクを貼る。
反応を見る。
落ち込む。
立ち直る。
また作る。

ここまでやって、さらに 「他人の作品もちゃんと見て、感じたことを言葉にして返して、関係性も育てていきましょう」 と言われたら、 そりゃ途中で 「もうAIにやらせてよくない?」 となる。

わかる。 非常にわかる。

むしろこの発想に至らないほうが、よほど健全でまっとうな社会人である。
私は違う。
私は怠惰の申し子である。
可能なら、評価も交流も収益も全部寝ながら得たい。

でも、そこだけは人間がやるしかない

結局のところ、たぶんそこだけは人間がやるしかないのだと思う。

作品そのものにAIを使うのはいい。
補助に使うのもいい。
整理に使うのもいい。
言い換えを手伝ってもらうのもいい。
自分の感想をうまく文章化する補助として使うのも、まあわかる。

でも、「感じていないのに、感じたことにして送る」ところまで行くと、やっぱり何かが違う。
それは効率化ではあるが、同時に、交流の芯を抜いている。

創作界隈というのは、作品だけで動いているようでいて、実は人間の気配でも動いている。
この人、ちゃんと見てくれたんだな。
この人、ここを面白いと思ってくれたんだな。
そういう小さな手触りが、じわじわ効いてくる。

だからたぶん、そこだけは自動化しきれない。
自動化した瞬間に、一番まずい部分が残る。
効率だけ上がって、体温だけ消える。

なんとも非効率で、面倒で、だるい話である。
私は不満である。
人類はもっと早く、“誠実さを保ったまま全部自動化できる技術”を発明しておくべきだった。

結論:面倒だが、人でなしにはなりたくない

というわけで結論である。

創作界隈、読まれるにも聴かれるにも、ある程度の交流営業はたしかに効く。
でも、それが苦手な人間にとっては普通につらい。
感想の言語化が得意な人はいいが、そうでない人にとってはかなり消耗する。

そしてAI創作界隈だからこそ、 「じゃあ感想もAIでいいのでは?」 という、怠惰と合理性が奇跡の合体を果たした発想が生まれてしまう。

だが、さすがにそれをやると、 もう人として終わり寄りである。

私は楽をしたい。
できれば働きたくない。
できれば作品だけ置いて勝手に広まってほしい。
できれば毎日酒を飲みながら、たまに通知欄を見てニヤニヤする生活を送りたい。

だが、そこまで都合のいい世界はまだ来ていない。
文明は未熟である。
技術は進歩したが、交流のめんどくささだけは、いまだに人力だ。

かなしい。

とはいえ、だからといってAIに全部やらせて、 AIが生成した感想をAIが受け取り、AIが感謝を返し、 その間で人間が「交流してる感」だけ吸うような地獄には、まだ落ちたくない。

そこまで行ったら、もう創作ではない。

承認の養殖である。

私はそこまでひどくない。
たぶん。 おそらく。
できれば、そう信じたい。

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